『スーパー・カンヌ』 Super-Cannes(J・G・バラード/小山太一訳/新潮社/410541402X)

インナースペース運動以来、一貫して現代社会の持つ病理を隠喩化して描いてきたバラード。その為か彼の作風は必然的に重苦しくなり、どの作品も大抵結末に至って主人公(またはそれに近い人々か舞台となる場所)の破滅が訪れる。この最新作もそのパターンに漏れず、高度に秩序化された都市とそこから派生した狂気を描き、ラストでは重苦しい(しかし一縷の望みが匂わせられた)決着がつけられる。このパターン化は既に八十年代から顕著となっていたが、本作においてはそれが徹底され、既にセルフパロディの領域へ到達しているようにも見える。事実、この作品は前作『コカインナイト』(1996)とほとんど同じと構造の物語であり、1988年に発表された『殺す』と比べても合わせ鏡のようだ。

なるほど確かに、高度に様式化され、一分の隙もないよう「調整」された都市がそこに暮らす者に対して暴力的衝動の発露を与えるというストーリーラインは、二十世紀以降に発達した病理学と都市の社会学から得られたデータを組み合わせた産物であると類推され、その権威とデータが物語に説得力を付与しているように見える。しかし待て、それは本当に正しく導き出された結果なのか? データとは、その読み方と解釈の方法によっては、いくらでもその「結果」を改竄できるものだ。その事実を反芻せず、安易に、高度に人工化された都市が人間の本来持つ狂気をより培養するかのような理論構築を行っているこの物語は、ある意味では危険な存在のようにも思える。

だが、その欠点を抱えていたとしてもこの物語は激しく魅力的で、これを読む者の好奇心を満足させ、同時に現実に対する観察眼を強化してくれる。悪しき、ハッピーエンド症候群的な物語至上主義を望む読者には、このラストは受け入れ難いだろうが、少なくとも良い物語がそれを読む者の現実により良きフィードバックを与えうる点においては、このストーリーはよくできた装置である。