『A.I. −Artificial intelligence−』

監督:スティーヴン・スピルバーグ
脚本:スタンリー・キューブリックスティーヴン・スピルバーグブライアン・オールディス
出演:ハーレイ・ジョエル・オスメントジュード・ロウ、フランシス・オーコナー、ブレンダン・グリーゾン、ウィリアム・ハートほか
(2001年/アメリカ/146分)


高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない――――A.C.クラークのこの言葉に示唆されるように、人間と高度に人間的なロボットとの違いは何なのか? と言われてもそう簡単には答えは出そうにない。ただし私見ではあるが、極論すれば生物学的な違いを除いて両者の間には何の差もないように思う。
という訳で、遅まきながら『A.I. -Artificial intelligence-』(監督・脚本:スティーヴン・スピルバーグ/脚本:スタンリー・キューブリックブライアン・オールディス/原作:ブライアン・オールディススーパートイズ』収録)を観た。周囲では意見が賛否両論に分かれていたが、僕にはキューブリックの意向をスピルバーグがうまくアレンジしたと感じられる素晴らしい映画だった。たとえ完成度の点でいささか難があるとしても。


物語は大きく分けて三つのパートから成る。少年型ロボットがある家庭に貰われてきて捨てられるまでの【第一幕】と、母親からの愛情を得るために人間になる方法を探して放浪する【第二幕】、そして2000年後の世界で彼の望みが一日だけ成就する【第三幕】である。素直に見ているだけなら、"ちょっと切ないけどいい話"でこの物語の感想は成立する。しかし、そう簡単に感動できるだけの物語ではない。この映画は詩情を兼ね備えていながら、皮肉な構造を併せ持つ人間批判の物語でもあるからだ。


第一幕。実子が不治の病にかかったまま冷凍処置に施されているヘンリイとモニカのスウィントン夫妻の家に、少年型ロボットのデイヴィッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)がやってくる。どこから見ても人間と同じで、微笑みを浮かべて自分になつくデイヴィッドの姿にモニカは当初恐れを抱く。しかし共に暮らすうちに情が移り、彼の母親となることを受け容れた彼女は、デイヴィッドへの刷り込みを実行する。だがその後、実子マーティンが奇跡的に回復し、家庭に戻ってくる。これでデイヴィッドの立場は微妙なものとなる。マーティンとしては、帰宅した家に自分と同じ扱いをされているロボットがいるのが面白くない。当然のように嫉妬が起こり、マーティンはデイヴィッドに対して陰険な行動を示す。その後、次々とデイヴィッドの立場を悪くする事態が続き、遂に夫婦はデイヴィッドの返品を決意する。


まず、この第一幕の過程と演出、そして主演のハーレイ・ジョエル・オスメントの演技が素晴らしい。息子をなくした悲しみに耐えられずに破裂寸前になっている妻を思うあまりロボットの代理子を何の考えもなく受け入れる夫と、たとえロボットであったとしても子供を求める母親、そしてデイヴィッドを"スーパートイ"としてしか認めないマーティン。そして、一度は情が移ったデイヴィッドを廃棄処理にすることに罪悪感を覚え、彼を森の中に置き去りにしていくモニカ。彼らの姿は人間のエゴイズムを自然に、かつ象徴的に表している。
同時に、ここではデイヴィッド自身のエゴと気味の悪さをうまく表現している。ピノキオの話に強い印象を受けた彼は、自分に何ら非がないのにモニカが実子同様に自分を愛してくれないことに悲しみを覚え、マーティンへの対抗心を燃やす。その姿はまさしく人間的で、本人も気付かないままエゴを剥き出しにしていると言えよう(※冒頭、ロボット開発者のホビイ教授が「無意識下での行動までも……」と話すシーンが、ここへの伏線となっている)。スパゲティのシーンがその好例だ。
プログラムであったとしても、愛情は愛情だ。それには何ら変わりがない。人間の愛情も極論すれば脳内で生成されたプログラムにすぎないからだ。しかしデイヴィッドの姿は母親の愛情を一直線に求めるあまり、戦慄さえ覚えるように描写される。そう、彼は人間ではなく融通のきかないロボットなのだ。一皮剥いた下にあるのは無機物の塊(それを再認識させるのが、故障したデイヴィッドを修理する場面)である。そのため他者から愛してもらえない人間が諦めを感じて引き下がるのとは異なり、彼はモニカから愛情を受けることを一心不乱に求めてしまう。そして我々観客は彼の完璧な愛情が同時に紙一重で不気味なものに変わる可能性を感じ取り、数々の事件を経てデイヴィッドが捨てられるのも無理はないと思ってしまうのである。
このとき、この物語を観ている我々には罪悪感は(おそらくほとんど)ない。せいぜい可哀相な子供ロボットの姿が目に写るだけだ。ひどい場合には捨てられて当然と思う輩もいるだろう。そのときそれらの観客はスウィントン一家と同化し、エゴを剥き出しにしている人間の姿になっている。
なぜ、このように第一幕では主人公である健気な少年ロボットが、観客の感情移入の対象となるよう可愛らしい"だけ"に描かれなかったのか? これは続く第二幕への伏線だ。


第二幕。わけも判らず捨てられたデイヴィッドは、自分が人間でない為にモニカから捨てられたと思い、"ピノキオ"から人間になるための方法を探して相棒のテディと共に流浪する。しかしそれもつかの間、デイヴィッドは投棄ロボットを狩って破壊ショーを見せるための業者に捕らえられ、あやうくスクラップにされそうになる。ここで彼は水先案内人となるセックスロボットのジゴロ・ジョーと出会い、人間になるためブルー・フェアリーの手がかりを求めてルージュシティへと赴く。
第二幕前半部で素晴らしいのは、投棄されたロボットたちの姿と、それを破壊して愉しむ人間たちの対比描写だ。
ショー業者に捕らえられた投棄ロボットたちの姿が、実物よりもよりある種人間的な趣をたたえているのに対し、破壊ショーを見ている人間たちの姿は意図的に醜く、無機質に描かれている。無言でロボットを処刑位置に引きずり出して、"執行"の準備をする職員たち、破壊されるロボットを見て歓声を上げる観客たち。そして、最新の子供型ロボットであろうとも情け容赦なく破壊しろと観客にアピールするジャンクフェアの主催者の姿。しかし、ロボットたちはあくまでも笑みを絶やさない。最期の刻が来ても、彼らは微笑を浮かべて死に赴く。その姿は同情と哀れみと心理的同化を誘う。
そして第一幕と同じく、ここでもエゴイズムが重要なファクターとして物語の誘導性を支配する。不必要なまでに残虐な仕掛けで破壊されるロボットたちの姿と、それに酔う観客の姿はこれでもかというほどに何度も映し出され、映画を見ている我々は剥き出しにされた人間のエゴイズムと醜さを垣間見る。ところが、直後にデイヴッドが処刑台に引き出されるくだりでショーの観客たちは業者を非難して投石と暴動を始め、デイヴィッドはジョーと共に逃亡する。
この場面、人間の善性を表しているように見えるがそれは表面上にすぎない。つい先刻までロボットたちが破壊されるのを見て愉しんでいた人間たちは、少年型ロボットが泣き叫んで命乞いするのを見て叛意を翻すのだ。このシーンは人間のいやらしい独善性をよく表している。そして、そんないやらしい人間たちの姿を見た観客は、第一部で感情移入の対象を人間(スウィントン一家)としていながら、この第二部前半でロボット(デイヴィッド)に感情移入の対象をシフトするのである。
観客が感情移入する対象を人間からロボットへ自然に変更させるこの巧みな誘導術は、物語の作りとあいまって少々陰湿な匂いを受けるが、それでも見事であることに変わりはない。また、これは皮肉な結末への伏線ともなっている。そうして物語はルージュシティでの手がかり発見とマンハッタンへの冒険に続く。


第二幕後半の冒険でもっとも重要かつ秀逸なシーンは、マンハッタンの研究所でデイヴィッド自身がアイデンティティ崩壊を起こし、そのあと自殺を図るくだりだろう。研究所で、母親の愛情を受ける対象となる自分自身とうりふたつのロボット(同型)を見たデイヴィッドは激昂し、彼を破壊してしまうのである。しかしそのあと彼は自分が唯一無比の存在ではなく、取替えの効く量産品であることを知って絶望する。そして投身自殺を図るのだ。
これらの場面でのデイヴィッドの姿は、他のどの人間キャラクターにも劣らず誰よりも独善的で人間的で、それであるため哀しい。オスメントの演技との相乗効果もあって、見ている側は胸を衝かれるだろう。特に投身自殺直前にビルの外壁に腰掛けて絶望を色濃くした表情を浮かべる場面は最高の演技である。
また、こことそのあとの場面におけるジゴロ・ジョーの立場(とジュード・ロウの演技)も好ましい。"愛するだけ"しか能のないデイヴィッドと異なり、分別のある行動と判断力を兼ね備えたジョーは、デイヴィッドが同型ロボットを破壊したことに驚き、あとずさる。このさりげない演出は、スピルバーグの上手さを感じる一点である。また、自殺を図ったデイヴィッドを助けたあとで警察の飛行機械に捕らえられたジョーは「I am. I was(僕は生きた)」とデイヴィッドに告げるが、これも観客とデイヴィッドの双方に生の意味を説いており、素晴らしい。


ところが物語はいささか捩れすぎた脚本のせいか、この辺りから皮肉を通り越してブラックユーモアじみてくる(それでも、あくまで表層は感動的な物語のままであるのだが)。特に前述したジョー逮捕のシーンはその典型であると同時に、この映画での最大の失敗箇所である。
ここでも重要な鍵となるのはエゴイズムだ。そう、同型機を殺害したデイヴィッドの人間的行動に衝撃を受けつつ、それでもなお自殺しようとした彼を助けたジョーが逮捕される場面で、捕まったらスクラップの運命が待っている彼を前にしても、デイヴィッドはジョーを助けるでもなく、ただ黙って「さよなら」と告げるだけなのである。
この場面は、既にデイヴィッドが人間に限りなく近い独善性を発揮する存在(≒人間)であることを示している。
しかし、これによって観客の反応は悪くなったと言わざるを得ない。第二幕前半で折角感情移入の対象をロボットにしていながら、またしても感情移入の対象を人間に戻してしまったからだ(実際は人間に限りなく近いロボットであるが、"激昂"と"自殺"のシーンを経たあとのこの時点で、観客の心象内ではデイヴィッドは既に人間と同じである)。こうして物語は感情移入の対象をまたしても変更したまま何のフォローもなされず、海中のブルー・フェアリーを前にしてデイヴィッドがいったん殉死する場面へ移り、2000年が経過する。


第三幕。2000年後、高度な生命体へ進化したロボットの末裔たちに発掘/再生されたデイヴィッドは、既に絶滅した人類を知る者として彼らに丁重に迎えられる。ここで自らの先祖と人間に敬意を表する彼らは、人間の作った"もっとも人間に近いロボット"の望みを叶えるために、テディが持っていた髪からモニカを一日だけ再生する。そしてデイヴィッドはそれが一日だけのささやかな夢であることを知りつつも、待ち焦がれた母親との生活に身をゆだねるのだ。もはや人類は滅び、求めた本物の母親は死亡し、自らが本物の人間になる意味を無くしているのにである。そして彼は最期に「愛している」という母親の言葉をようやく聞き、愛が得られたこと=2000年にわたる渇望からの解放に満足して涙を流し、眠りに落ちる。一日が過ぎて目が覚めれば彼の周りにはテディしかおらず、ほかに誰も知る者(人間)がいない残酷な現実が待っているにも関わらずだ。
それでも尚、彼はそれを求めずにいられなかったのである。他の誰よりも人間的/独善的な要望を満たす≒愛を得て満足するために。


この第三幕の構図は人間に対する皮肉であるばかりか非常にグロテスクで、毒々しさと冷たさに満ちており、素晴らしい。スピルバーグ(とキューブリック)がどういう意図をもってこの陰湿な脚本を書いたのかは不明だが、一見しただけではハートウォームな物語にすぎない(それだけでも十分に素晴らしい御伽噺であるが)。その陰に捩れた人間批判を盛り込んで緻密に構築したこの映画、亡きキューブリックが撮ったなら表面の印象は異なるだろうが、底流では同じ思想を盛り込んだのではないか?
そういう意味で、デイヴィッドの姿はHAL9000のアナザーバージョンに他ならない。HALは人より優れていながら狂った(=人間的になった)ことで人間との生存競争に敗れ、高次の存在(スターチャイルド)になれなかった。デイヴィッドは人類が滅びたことによって人間となり得たが、そこでは本当に彼が求めるものは得られなかった。どちらの姿も人間になった末の悲劇である。その悲劇的な姿には人と言う種の卑小さと、人に対する皮肉が込められている。


ところがこの皮肉な構図と、第二幕結末での感情移入対象の急激な変更、第三幕自体が客観的な"神の視点"で見るスクリプトである等の理由のため、結果的にこの映画は観客の受けがよろしくなかったという評判を迎えた。これは非常に残念な結果であると言わざるを得ない。(2001.7.15/2002.7.28、2004.8.13加筆・訂正)