『ポップ1280』 Pop. 1280 ,1964

ジム・トンプスン/三川基好 訳/扶桑社
ISBN:4594028632/\1429

冒頭から丁重な文体と冷徹なリアリズム指向によってやんわりと従来の道徳観念を否定し、その中で捻れた悪意を主人公に炸裂させる物語。主人公ニックは、人口1280人の田舎町を舞台に悪徳と殺戮の限りを尽くすが、それが彼の悲劇的人生観を基点として培養されてきた悪意の結果であることは、ニックの幼年時代に関する独白からも明らかである。彼の内には彼自身も気づかない深い絶望しかない。乾いたブラック・ユーモアと、ニックの天然ぶりな犯罪の実行経緯の描写で「笑い」(ある登場人物を射殺する場面などは、殺される側から見た場合、あまりにも不条理すぎて笑うしかない)をタイミングよく提供して隠蔽しているものの、それを掻き分けた底に見えるのは何もない虚無。空っぽの真っ暗な穴だ。

巻末の解説によると時代設定は第一次大戦末期(一九一七年前後?)だが、この舞台には同時期のアメリカにまだ残っていたと思われる牧歌的雰囲気は到底見当たらない。この時代はアメリカが国際政治上で巨人となる前夜で、やがて来る第ニ次大戦を挟んで急激な機械化−物質主義化を迎える変革の時代でもあった。この急進的変化に取り残されて衰退しつつある南部の田舎町を舞台とし、ひどく捩れた主人公を配置して重苦しい雰囲気を醸し出している点では、本書はある意味、アメリカ南部を題材とした一時期流行ったゴシック小説に近いノリがあるかもしれない。

一方、一九六四年に発表された本書が描き出す諷刺の刃によって貫かれたのは、決してWW1末期頃のアメリカの一般的田舎町に象徴される社会体制だけではなく、第二次大戦以降にニヒリズムが蔓延して厭世的になった六〇年代アメリカの社会と、そこに生きる人間たちだったのではないかという気もしてくる。

こうして用意されたひどくグロテスクな構図のもと、ニック・コーリーの殺戮劇が幕を開ける。犯行後、内面では殺人の露呈に怯えながらも、ニックは食事と睡眠をきっちりとり、保安官選出のための根回しに余念が無い。そして自らが犯した犯罪に対する罪悪感は欠片ほどもない。手にかけた犠牲者の死を少しだけ悼む一方で、転がる石を蹴飛ばした程度にしか思っていない彼の多面的な独白は、この殺人者が深い孤独を抱えた存在であり、人間が善悪を混在した存在であるという現実のメタファーでもある。

ところがこの殺人者の意図は、やがて三人の女との関係によって次第に思わぬ方向にずれていく事になる。当時の時代背景に照らし合わせて考えるとこの三人の女たちそれぞれの設定も実に鮮やかで、驚かされる。特にエイミー・メイスンの人物造型とその配置は、ニックを混乱させ、やがて結末に導く意味でも秀逸だ。

かくして読み手どころか主人公ニック自身もどうなるかわからない展開の末に、荒涼とした果て無き絶望とも救済とも取れる皮肉な結末が用意される。終盤、ある人物に

「自分を別の野郎と混同しているんじゃないのか? 同じCのイニシャルのやつとさ」

と問われ、ニックが返答するシーンでは、思わず笑いと哀切を同時に感じてしまう。

自らを裏切る男であり、裏切られる男でもあると嘯く自称キリストの物語がアメリカ本国でかつて評価が低く、混迷の現代になって再評価されてきたという事実は、作品内部の皮肉な構造と併せて真に興味深いものであり、それを含めた二重の意味でも本書はアメリカ文学史を読み解く必読の一冊だと思えてくる。(00.07.24)